それでも日本酒にイエスという6 愛と哀しみのボレロ
愛と哀しみのボレロ
愛を与える者、勇者になるための冒険の旅。
それはまさしく冒険と呼ぶにふさわしい茨の道。
愛を与えるには、とてつもない恐怖、怒り、哀しみがついて回ります。
先人は、人と人の距離を人間と言いました。
その集合体が社会であり、それを全生物・環境まで拡大したものが自然です。
本来は逆で、自然から勝手に抜け出して自分たちの世界をつくったのが人間なので、自然も人間も本当は存在しないのかもしれません。
また先人は、人と人の距離が近づくことを愛、人と人の距離が離れることを哀しみと呼びました。愛も哀もどっちもアイ。つくも離れるも同じこと。
私たちは愛と哀しみに翻弄されている。
人は母性や血から与えられた愛である「自己(情緒)」と父性や社会から生まれた「自我(仮面)」を持っているらしい。
子供の頃の性格の自分と、他人に合わせるようになってからの自分と思うと分かりやすいと思います。
前述のように、人は孤独を持っているために愛を求めて人に近づきます。しかし他者に近づくと、その他者の自我に触れてしまう。
自我は自己愛という防衛システムを持っており、[自分の自我]と[他人の自我]が接触すると怒りという反応が起きて、距離をとる行動、哀しみが生まれてしまいます。
私たちは冒険している限り、この自我と自我の衝突を何度も繰り返し、愛と哀しみの人間関係に翻弄され続けます。
愛すると哀しみが生まれる、哀しむと孤独が生まれ、また愛を欲するが、哀しみの不安がつきまとう。人間関係は付いては離れを繰り返す、愛と哀しみのボレロ(ダンス)のようです。
愛を与え、愛を与えられる者になるためには、自己愛の発生を抑えることが必要です。
フロム先生は、愛を与える時には素直な愛を与えよと言いました。
自己情緒を正しく表現した愛を与えれば、怒りは生まれない。
なぜなら自己情緒とは、母性という無償の愛から生まれたものであり、分け隔てなく愛される尊い存在だからです。
誰も赤ちゃんの存在を否定することはできません。
私たちは、成長するにつれて、自我という仮面で自己情緒を隠してしまうことが多くなる。
自己情緒を表現する自我が利己的であれば、あなたの愛は相手の自我に触れ、怒りと哀しみを生んでしまう。
自己情緒を表現する自我が自己と同じ形をしていれば、その愛は相手に素直に届く。私たちは赤ちゃんや子供のような素直な愛を相手に伝えればよかった。
私たちはまず、正しい自我を身につける冒険に出かける必要がある。
自然界ではこの愛と哀しみのボレロを進化と退化と呼び、自然に対して正しい距離を見つけられなかったもの(自然から愛されなかった者)は自然淘汰されてしまう。
私たちは、自然環境に適応できず絶滅した者たちの哀しみを背負い生きているのかもしれません。
・自己情緒と自我を同じ形にすることで哀しみを抑えることができる。
どちらにもなる酒
日本酒は自我の形を変えてくれるかもしれない。
お酒は良くも悪くも人の本性をあらわす。。
お酒が自我を抑えて矯正し、私の素直な心の情緒を外に出してくれるなら、人付き合いもうまくいくかもしれない。
トゲトゲの自我と自己愛を増幅させるお酒の飲み方はやめておこう。
お酒は自己情緒(与えられた愛)を増幅してくれるものかもしれない。
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