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いわゆるひとつのメークドラマ2 縁ってなあに?

縁ってなあに


酒とはなにか。それを調べていく中でとても重要なキーワードが見つかりました。


それは「縁起」です。

前回はミスタープロ野球の長嶋茂雄氏を引き合いに出し、縁起をわかりやすくメークドラマという呼び方で紹介しました。


今回は「縁」というものがどういったものであるか考えたいと思います。


言葉と縁


縁や縁起という言葉は私たちの日々の生活の中でもよく使われますよね。

縁起が良い、縁起物、ご縁、縁結び、縁談、縁切り、縁もゆかりも〜、縁の下の〜などなど。

縁という言葉は物質を指すものではなく、とても抽象的な意味合いを含んでいることがわかります。


縁は、起こった出来事を理屈で解決できない時に発生する言葉です。

縁は自然科学では解決できない、説明できない物事を埋める言葉として扱われています。

英語ではLuckyやChanceが同じ意味合いをもっていますね。


いくら時代が進んでも、この世界の全ての物事を解決することはできません。

私たちは解決できない物事や矛盾を許容し、縁という言葉でその矛盾を埋めて納得し、生活しています。



縁という言葉が生まれる前に生きていた私たちの祖先は、「体感できるもの」と「体感できないもの」の違いと特性をよく観察していました。

彼らは物事をよく見極め、体感できるものは言葉と物質となり、体感できないものは神や精霊として、関係性をつくっていきました。

時代が進み、栽培や農耕が始まり、人の数が増え、自然科学が発達して作ることのできるものが多くなると、体感できるものが増えて、言葉と物が格段に増えました。

そして、体感できないものは、どんどんと減っていきました。


その結果、私たちのいま目の前にある物には全て名前がつけられており、それらは属性ごとに分類することができ、多くの人とその分類を共有できるようになりました。

これが、ほとんどの人間が共通認識できる「言葉」というものです。




感知できる世界、言葉の世界に対して、私たちが感知できないものの世界を何と呼ぶのか。


これは時代や民族によって呼び方はまちまちで、統一はされていません。

私たちは感知できない世界の捉え方で人種や国を分けていますね。


人間が細かく分類される以前は、それを精霊(レイ・ガイスト)や魂(タマ・スピリット)、自然や神などと呼びました。


ギリシア哲学がはじまると感知できるものをロゴス、感知できないものをレンマやコーラやミトスと呼んでいました。

また東洋では感知できなものを縁と呼び、仏教の重要な要素として、この世は縁(仏)で満ちているというほどに、感知できない世界を発展させました。

 

縁の捉え方

感知できない世界、縁の世界を共有すること、説明することは至難の業です。

他人からは感知できない、神や自然、感情といったものを感知できる手段で表現することは本当に難しいことです。

ここでは縁を視覚化して表現してみます。

視覚の世界

細分化 視覚(入力)⇒分類(脳) 

この過程が言葉の世界

縁は言葉を越えて全てに満ちている


ほとんどの景色を言葉によって分類することが可能


縁は全てを繋げてしまう


縁に際限はない。

縁は永遠や無限と同じ意味を持ちます。

私たちは自分の目線でしか物事をみることができません。

しかし少しでも縁の視点で物事を見ることができたのなら、少し世界が変わって見えるかもしれませんね。


野生とは縁の世界を生きること

西洋でもフランスの民族人類学者レヴィストロース(1908-2009)は、狩猟採集民や未開拓民の感知できないものを的確に捉えようとする思考法から「構造」という考え方を見出しました。

原始の人が自然との縁を重視して生きていることを発見し、それの目線を野生(sauvageソバージュ)と呼びました。

これも縁の思想と非常に近しい考え方です。



小まとめ


感知できるもの…言葉、ロゴス

感知できないもの…縁(東洋)、レンマ、コーラ、ソバージュ(西洋)、自然、神、精霊、魂


先人たちはこのように物事を分類しました。

縁のように、感知できないものに対しても言葉をつけているところが人間らしくて、とても面白いですね。

縁の存在は誰も確認することができないけれど、絶対に存在してるよね。と、公に認めて言葉になっています。


ロゴスが発達した現代においても、実際に日々起こる事象は謎だらけ。

科学が発達したこの時代でも、私たちは確実に縁の存在を信じていますね。


全ては縁で満ちている


出雲 一畑薬師 「全てに仏が満ちている」仏を大量につくる力技でその世界を視覚化。

私が縁の概念を知ったときに、いちばんしっくりと来た言葉は、先述した「この世のすべては仏で満ちている」という東洋思想(仏教)の言葉でした。

縁やここでの仏を身近なものに置き換えるとすると、空気を想像するのがいちばん良いでしょう。

縁はこの世の全てに満ちている。

そして今までと、これからの全てにも満ちている。


それはまさに永遠や無限といったものと等しいものなのでしょうね。


縁は私にもあなたにも満ちているし、地球の反対側の人や植物や動物、さらに何万年前や何万年後の生命にも満ちている。

縁は全てに満ちているので、なにかのきっかけで縁起すると、私たちはいつでも何者とでも出会ってしまいます。


曼荼羅(マンダラ) またも「全てに仏が満ちている」を力技で視覚化。

曼荼羅(マンダラ)や、床の絨毯の統一された柄なんかも、縁を視覚的に表現しているんじゃないかと思います。


同じ縁起の上にいることを可視化するホテルの絨毯

縁起の上で裸足と靴が与える印象の違いも面白い。

裸足で歌う女性は大地との縁を感じているのだろうか…。


あふれる縁


縁はいつどこでも、何とでも発生してしまう。


私のつくる酒が私の知らない人に届いて、それがもし美味しかったら、いつか会いに来てくれるかもしれない。

私はたまたま出会った師匠たちに酒造りを教わり、私の酒造りが誰かに伝わりまた誰かに伝わるかもしれない。

私は過去の偉人の本から学び、私の書いた文章を未来の人が読むかもしれない。


これもぜんぶ縁起ですね。


分解者の代表キノコ

どこにでもあるような土、地面。

生命は土から生まれます。


土には必ず前生命の残骸が残されており、それは分解されて有機物と呼ばれるようになる。

土には様々な分解者が存在しており、そこを通過する水には有機物やミネラルが溶け込んでいく。

生命は土と水と太陽エネルギーと空気を利用して育ちます。


生物が食べたり飲んだりする以上、必ず前生命体の恩恵を受けている。

そして自分もいつかは土になり有機体として次の生命の一部になる。

だから土と水から生命が生まれるし、歴史が刻み込まれる。


これも確実に縁起でしょう。

縁は空気や土や水のようなのもかも知れませんね。


何と云われても

わたくしはひかる水玉
つめたい雫

すきとほった雨つぶを
枝いっぱいにみてた

若い山ぐみの木なのである

宮澤賢治


宮沢賢治のこの詩のように、ありとあらゆる存在と時間を超えて縁は起こる。

それはこの世の全てに縁が満ちているからです。


縁の共同体


私たちは個として存在していますが全てのものと縁で繋がっています。

縁は存在も時間も関係がない。

人も虫も動物も植物も無機物も過去も現在も未来にもぜんぶ同じように縁は存在していますよと先人は言っています。

この考え方は文明前の狩猟採集民の考え方と同じですね。

野に生きる者の掟である野生の法則は、正と負の対称性でできている。

狩るから狩られるし、与えるから与えられる。

野生の思考は常に万物の距離と関係性、すなわち縁を重視します。

現実的にどんなに遠い存在でも縁を想像して自分たちと繋げようとつねに類推(アナロジー)を働かせています。

関係性が多いほうが生存確率が上がりますからね。

現代人は野生という言葉から野蛮や蛮行を推測して嫌悪してしまうけれど、野生は決して野蛮ではありません。

むしろ野蛮とは真逆の縁的な思考だとレヴィ・ストロースは伝えてくれました。


文明や農耕を選択しなかった人たちの血を継ぐ民族は、今もその対称性をもった思想の影響を大きく受けていることがわかります。


そのことは神話や物語や世俗風習が伝えています。

それらを踏襲しているかぎり野生は残っていくでしょう。

現代人の私たちも野生からスタートしているので、この思想は十分に理解できますね。

原始や野生への嫌悪感(分類)は、人間の家畜化を証明するといった話もありますから、この野生の思想を守ることは人間を守ることと同じ意味を持っています。

現代人が、道具と資本の力で環境に対して蛮行を繰り返さないように、縁や野生の視線を持つことは重要ですね。

縁の目線では、全てのものが繋がりを持っている。
このことを仏教では空とか一即多、多即一とか言ってますね。

全てが縁で繋がっているのだから、そもそも個なんて存在しないんじゃないか。

欲も悩みも自分で作り出してるだろう、だから個でありながら個を捨てられた人は孤独のない全てに満ちた縁の世界にいけますよと。

それを空とか極楽とか天国とか永遠とか無限とかグレートスピリットとか共同体とかいってますね。

そんなに難しく言わずとも、エンタメの世界でも、コスモゾーンとか大不思議世界とか情緒とかLCLとかイトナミとか色んな人が意図せずとも色々な言葉で伝えています。

このように先人たちは縁を非常に意識し、また意図的に利用しながら発展してきたように見られます。

それは西洋、東洋などと分類されるよりも遥か以前の時代のことで、それは狩猟採集時代やヒト科がまだ複数存在していた洞窟時代からなのかもしれません。


まとめ


岡本太郎も縁起を見ていたとおもわれる


先人たちは意図的に縁を起こす方法を知り、縁起によって新たなイノベーションを生み出しました。

縁起の力に憧れ、未来を見て、新たな知恵や富を獲得して時代を進めていきました。


どうでしょう。


縁という存在がつかめたでしょうか。

縁は全てに満ちているけど五感で感知できない。

だからなんとなく感じてればいいんです。



私は縁と縁を意図的に起こす縁起が、アルコールと醸造にも大きく関係していると考えています。

日本酒醸造を縁的視線、構造的に見てみると、米、水、麹、酵母、乳酸菌など異なる言葉をひとつに取りまとめている縁的存在はアルコールと言えるでしょう。

発酵は縁起そのものであると言えます。


日本酒は、人間界と自然界をつなげる縁的存在、つまり縁起物である。

だから米や子どもを授かることを祈願する儀礼に使用されるし、縁起により時間が発生するから民族性(歴史)も付与されるよと。


言葉(ロゴス)…米、水、人、風土、麹菌、酵母、乳酸菌など
縁(レンマ)…アルコール



次回は意図的に縁を起こす方法。


縁起の儀礼について考えてみようと思います。


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